爽やかな冬晴れが広がるクリスマス前の土曜日、デパートは家族や恋人へのプレゼントを選ぶ人々で賑わっていた。
しかし、クリスマスツリーの輝きを宿したかのようなアクセサリーも、降り積もる雪を連想させる白いカシミヤのニットも、その白髪の老夫婦の目には入らない。
夫はスリーピーススーツの上に黒のチェスターコートを羽織り、同じくスーツに黒のツイードコートを合わせた妻の手を引いて、ゆっくりと、それでいてしっかりとした足取りで歩いていた。
2人の前に徐々に姿を現したのはイギリス風のカフェ。
開放的な入り口からはシャンデリアがのぞき、真っ白な壁に掲げられた金色の額縁の看板には、金地に白抜きの文字で「Oliver’s manor house(オリバーズ・マナーハウス)」と書かれている。
このカフェはかつて結婚式場の総料理長だったシェフのハッシュドビーフやオムライス、季節のケーキなどが楽しめると定評だが、デパートの隅にあるうえに、隣接する若者向けのショッピングモールにチェーン店のカフェやレストランがたくさん入っているため、それほど客は多くない。
しかし、客数の少なさがかえって店に落ち着いた雰囲気を与えており、客のほとんどはそれを好むリピーターだった。
「いらっしゃいませ」
カフェを訪れた2人を、穏やかな笑みをたたえた男性店員が出迎えた。
「お席にご案内いたします」
店内に入ると、右手の壁に沿って並ぶソファ席には、紅茶を飲みながらくつろぐ女性客がちらほら見受けられた。
左手は全面ガラス張りで、デパート内を行き来する客や向かいの店舗の装飾を眺めながら食事を楽しむカップルがいる。
奥にはテディベアや紅茶の缶を飾った棚があり、その横にクリスマスツリーが飾られていた。
老夫婦はその近くの席に座ると、ハッシュドビーフセット、エビとアサリのグラタン、アッサムティーを注文した。
店員が去ったのち、ガラスの向こうの景色に目をやりながら夫が口を開いた。
「外は人が多いね。疲れたんじゃないか?」
「あんまり人混みのなかを歩きませんから、少し。でも、ここは静かで落ち着きます」
「おしゃれしてきた甲斐があったよ」
「ふふ。お互いにね。なにしろ、年に一度の楽しみですから」
「そうだな。今年もここは変わっていないね。ほらごらん、クリスマスツリーもちゃんと飾ってある」
「そうですね。あら、でも去年とは装飾が少し変わったんじゃありません?」
「よくわかるね。君は記憶力がいいな」
「ほら、このリボン、去年と色が違いますよ」
「さすがでいらっしゃいますね。今年はブルーのオーナメントでまとめております」
料理を持ってテーブルにやってきた店員が妻の言葉に応えた。
「そうなのね。とてもきれいだわ」
「ありがとうございます。こちら、ハッシュドビーフとセットのサラダ、エビとアサリのグラタンでございます。お飲み物はお食事のあとにお持ちいたしますね」
「ありがとう」
夫がソースポットに入ったハッシュドビーフを皿に移すと、デミグラスソースの甘い香りが広がった。
妻もグラタンにフォークを差し込み、ゆっくり混ぜると、閉じ込められていた湯気が白く立ち上る。
「うん、やっぱりおいしいね。初めてこの店に来たときのことを思い出すよ。よく一緒に通っていたレストランが閉店してからは、2人で外食すること自体なくなって寂しいもんだったが、娘にすすめられて君と初めてここを訪れたときは、接客の良さと料理のおいしさに驚いたもんだ。こんな良い店を見つけるとは、さすが僕たちの娘だな」
「もう。あなたったらここに来るといつもその話をするんだから」
妻が笑いながら言う。
「こんなにおいしいならもっと早く来るべきだったと、あのとき本気で思ったよ」
「それからは、ここに来るのがクリスマスの恒例になりましたね」
「クリスマスくらいおいしいものを食べなきゃな」
「あら。私の手料理じゃご不満?」
「いやいや、そんなことはないよ。君の手料理ももちろんおいしいけれども、ここはなんというか、家のダイニングテーブルとは雰囲気が違うから…」
「はいはい。わかってますよ」
慌てて弁解する夫を見て、妻はおかしそうに笑った。
やがて、コーヒーとアッサムティーが運ばれてきた。
「今年も、無事に2人でクリスマスを迎えられましたね」
テーブルに置かれた、ロウソク型のLEDライトを見つめながら、妻がそう言った。
「ああ。クリスマス本番は来週だけどね」
「お義父さんや娘がまだ家にいた頃は介護や子育てでよく喧嘩もしましたけど、2人っきりになってからは穏やかな毎日ですね」
「娘が結婚して家を出たのなんてもう何十年も前のことじゃないか。どうしたんだい、急に」
「あの頃は毎日が必死で、まさかこんなに静かな時間を過ごせるようになるとは想像もしなかったわ。こうして幸せを実感できるようになって、改めてそう思うんです」
「そうだな。君には迷惑をかけたよ。よく衝突もしたし、金銭面でもあまり余裕がない暮らしだった」
「今となってはそんな苦労も良い思い出ですよ。そんな思い出のひとつひとつが、年を重ねるにつれて、どんどん大きくなっている気がするの」
「…来年もまた一緒にここに来よう」
「ええ」
夫は妻の手を握り、妻と微笑み合った。
お互いの結婚指輪がシャンデリアの光に照らされてかすかに光っている。
しばらく会話を楽しんだあと、2人は席を立って会計へと向かった。
「ご満足いただけましたか」
「大満足だよ。量の話じゃなくてね。量も満足だけど」
「ありがとうございます」
「ここはケーキもおいしそうね」
レジカウンター横にある、持ち帰り用のケーキのショーケースを見ながら妻が言った。
「ケーキも買っていくかい?」
「いいのよ、クリスマスはあなたがシュガーバタートースト作ってくれるんでしょう? 私はあれが大好きよ。うちに帰ってくる娘も楽しみにしてるんですから」
「クリスマスはご家族おそろいですか。今から待ち遠しいですね」
「ありがとう。それでは、また来ます」
老夫婦は嬉しそうな顔を浮かべながら店員に一礼し、再び手をつないで歩いて行った。
「ありがとうございました」
店員は2人の姿が見えなくなるまで見送ると、胸ポケットから買ったばかりの翌年の手帳を取り出した。
そして、クリスマス前の土曜日に「クリスマスツリー前の席を確保」と記入し、仕事へと戻っていった。
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