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推しを失い旅に出た話(2)

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とても受け入れられることではなかった。

あり得ないと思っていたことがあり得てしまったのだ。

まさか彼女がこんなにも早く引退するなんて。

僕は泣きもしなければ騒ぎもしなかった。

どうやらショックを受けたときに感情を捨てる癖は消えていなかったらしい。

そのときの僕には本人が決めたことだから理解しようという気持ちもなかった。

発表されたからにはもうどうすることもできないという、諦めだけだった。

それでも少しずつ、四季が移ろうように彼女も変化するのだと現実を受け入れ始めた頃。

僕はしっかり体調を崩した。

梅雨が始まる少し前から約1ヶ月間、精神的ストレスからパンと雑炊しか食べられない日々が続いた。

こうして振り返ってみると、今年の前半は絶望的だったと思う。

なくしたところから始まり、手に入れたと思った途端にまた失った。

あの人の幸せが僕の幸せ。

そのために全力で応援しようと思っていたのに、なにもできないままファン人生が終わる。

もっと早く出会っていたら、もっと早くから僕が応援していたら彼女は引退しなかったのではないか。

それに彼女が引退した後、僕は一体何を頼みに生きていけばいいのか。

彼女が舞台に立たない世界に救いはあるのか。

ぐるぐる考えている間にも日々は過ぎていき、最後の舞台の幕が上がる夏がやってきた。

こんな僕を救ってくれたのは今回も彼女だった。

運良く、僕は舞台のチケットを取ることができたのだ。

薬を飲んでも治らなかった僕の体調不良はその日から治っていった。

生きる気力が湧いたからなのだろうが、今となっては自分の単純さに呆れてしまう。

そしてやってきた観劇当日。

そういえば僕はあのときも今日と同じように、こうして新幹線に揺られていた。

音楽が鳴り、舞台の幕が上がると、あの人はそこにいた。

いままでスクリーンの向こう側でしかなかった世界が目の前に広がっていた驚き。

夢の世界はそこに、本当にあったのだ。

劇場で観た彼女の演技は今でも目に焼きついている。

あの感動を、僕はこれからも忘れることはないだろう。

笑顔の彼女に拍手を送ることができた、夢を叶えることができた僕は幸せ者だとしみじみ感じた。

最後の舞台を観に行きたくても行けない人がたくさんいたはずなのだから。

それを思うと、僕はこのままではいけない気がした。

彼女が次のステージに進むことはもう止められない。

彼女が僕を導いてくれるのもこれで最後だ。

だとするならば、僕もこれからは自分の足で次のステージへと進まなければならない。

彼女の幸せのためではなく、僕自身の幸せのために。

彼女が一般人に戻った日は晴れだった。

雲ひとつない、というわけではなかったけれど、きれいな空だった。

彼女が表舞台を去ってからも、これまでと同じように日が昇り、沈んでいく。

けれど、僕がいる世界は確実にこれまでとは違う、新しい世界だった。

あの日撮影した青空の写真を見ると、僕は今でも新しい朝を迎えたあの瞬間に戻ることができる。

季節は秋に移り、もうすぐ本格的な冬がやってくる。

僕はあれからフリーランスとして再スタートを切った。

そして新しい土地で新生活を始めるために、今日この特急に乗っている。

この1年、いろんな事があった。

いろんな事に気づいた。

仕事を辞めたらストレスから解放されると思っていたけれど、それは辞めて間もない頃だけの話で、時間が経つと将来への不安が大きなストレスになっていった。

それに、あんなに煩わしかった人間関係も、1人になると懐かしく思える。

誰とも人付き合いをしないというのもそれはそれで寂しいものだ。

無事引越しがすんだら、その知らせを口実にまた友人と連絡を取ってみてもいい。

考え事をしているうちに車内の乗客はずいぶん増えていた。

パソコンを広げているビジネスマンもいれば、僕と同じようにスーツケースを持った大学生くらいのカップルもいる。

時々笑い声が聞こえてきて、いかにも楽しそうだ。

もしも彼女に出会っていなかったら、僕は幸せを知らない代わりに悲しい思いもしなくてすんだのだろうか。

いや、その場合僕は今も心に闇を抱えたままだったろう。

彼女のファンになって、嬉しいことも悲しいこともたくさん経験した。

感情の起伏が激しい時間だったけれど、何も感じないよりずっといい。

彼女を応援していた日々に悔いはない。

それに学んだこともある。

人の幸せを自分の幸せと思うのはいけないことではないけれど、誰かを人生の中心に置いて生きるべきではないということだ。

思い返せば、僕は彼女に夢中になりすぎて周りが見えなくなっていた。

もし彼女が今も芸能界にいたら、僕は盲目であり続けたはずだ。

そうなれば僕個人の人生は消えていただろう。

夢を見ている間は幸せでも、目が覚める日が、白紙の自分に気づく時がいつか必ず訪れる。

現実の世界では舞台のように悲劇の絶頂で幕を下ろすことはできない。

大切な人が目の前から消えても、僕はまだ生きているのだから。

大小さまざまな駅を通過しながら特急は進んでいく。

これからの僕は僕自身を生きがいに生きるのだ。

一度は背を向けたこの社会で。

この道の先で、いつかまた彼女と出会えるだろうか。

もしかしたら今頃彼女もどこかを旅しているかもしれない。

それを思うと、今回の旅はいよいよ楽しくなりそうだった。

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かなづち

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