パンドラへ続く道の話

『地獄変・偸盗』(芥川龍之介/新潮文庫)を読んでおくと
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子ども:
わあ、あそこに変な男が来た。
みんな見ろよ。みんな見ろよ。

栄養食を売る女:
ほんとうに変な男じゃないか?
あんなに鐘をたたきながら、なんだか大声でわめいているよ。

燃料屋の爺:
わしは耳が遠いせいか、なんとわめくのやら、さっぱりわからぬ。
もしもし、あれはなんと言うておりますな?

掘削作業員の男:
あれは「母なる大地よ。おーい。おーい」と言っているのさ。

燃料屋の爺:
いまだ地球の存在を信じるとは――気が狂うておるな。

掘削作業員の男:
まあ、そんなところだろうよ。

植物工場で働く婆:
いやいや、ありがたい修行者かもしれぬ。
私は今のうちに拝んでおこう。

栄養食を売る女:
それにしてはみすぼらしい顔じゃないか?
あんな顔をした修行者がどこの国にいるもんかい。

植物工場で働く婆:
もったいないことをお言いでないよ。
罰でも当たったらどうするんだえ?

子ども:
変人だ。変人だ。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。

ネズミ:
チュー。チュー。

墓参りに向かう婦人:
ご覧なさいまし。おかしな男が参りました。

婦人の付き添い:
ああいう変わり者は女性を見ると、いたずらをしないとも限りません。
近くへやってくる前にこちらの横道にそれてしまいましょう。

金物職人:
おや、あれはタナトスの議員じゃないか?

行商の旅人:
議員だかなんだか知らないが、あの人が急に仕事を辞めて、パンドラを目指すと言い出したものだから、タナトスでは大変な騒ぎだったよ。

若い警官:
なるほどタナトスの議員に違いない。
ご家族は、さぞかし失望なすったろう。

行商の旅人:
なんでもご両親は、泣いてばかりおいでだとかいうことでした。

金物職人:
しかし親の制止を振り切ってまでも、自分の意志を貫くとは、たいそうご立派なことだねえ。

人工魚を売る女:
立派なものですか。
捨てられた親の身になれば、尊い志であれ仕事であれ、子どもを奪ったものには怨みがありますわね。

若い警官:
いや、それも道理ですね。ははははは。

ネズミ:
チュー。チュー。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。

クローン牛を飼育する男:
ええ、牛が驚くわ。よしよし。

牛の餌を運ぶ部下:
気が狂っている人間には手がつけられません。

年配の役人:
あの男は正義感が強く信頼も厚い役人として有名でしたが、まさか近くに恒星が存在しないこの星で天体観測を試みる愚か者だったとは。
人工灯がなくては生活すらままならないというのに。

若い役人:
本当に正義感の強い人でした。
部下・同僚だけでなく、上司に対しても遠慮せずに物を言っていましたっけ。
それなのに地球だなんておとぎ話を真に受けるとは信じられません。

裸足の浮浪者:
いいザマだ。
2、3年前あいつに会いさえしなければ、俺は議員をクビにならずにすんだんだ。

スクラップ業者の男:
どうしてまたああいう誠実な人が、人の寄りつかないあんな場所を目指す気になったんでしょうな?

年配の役人:
さあ、それは不思議ですが、やはり精神を病んだのでしょう。

薬を売る男:
俺はきっと悪魔かなにかが、憑いていると思うのだがね。

スクラップ業者の男:
いや、俺は生き霊だと思ってるのさ。

薬を売る男:
それでも悪魔はどうかすると、人の魂を奪うというじゃないか?

スクラップ業者の男:
なに、人の魂を奪うのは悪魔に限ったことじゃない。
生き霊もやっぱり人の魂を奪うそうだ。

裸足の浮浪者:
どれ、この暇に首の袋いっぱいになるまで、売れるパーツでも盗んでいこうか。

若い役人:
あれあれ、あの鐘の音に驚いたのか、コウモリが飛び立ちました。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。

石並べをする浮浪者:
これは騒騒しい男が来たものだ。

その仲間:
なんだ、あれは?
裸足のホームレスが走って行くぜ。

顔を布で覆われた女:
私は足が痛くなりました。

女を連れる男:
もうここを過ぎれば、すぐに街に着きますよ。

石並べをする浮浪者:
布の下が見てみたい。

その仲間:
おや、脇見をしているうちに、石を取られてしまった。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。

コウモリ:
バサバサ。バサバサ。

路上に座り込む女:
「赤い靴…はいてた…女の子…」

その隣に座る女:
ご覧よ。おかしな男じゃないか?

コウモリ:
バサバサ。バサバサ。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。

暫時人声なし。反響する鐘の音。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。

再び反響する鐘の音。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。

老人:
先生。先生。

都会から来た男:
私をお呼び止めなさいましたか?

老人:
いかにも。先生はどこへお行きなさる?

都会から来た男:
パンドラへ参ります。

老人:
パンドラはここじゃ。

都会から来た男:
さらに奥へ参ります。
私は地球の姿を目にするまでは、どこまでもパンドラの奥へ進んで参る所存です。

老人:
これは面妖なことをおっしゃるものじゃ。
では先生は地球の姿を、今にもありありと目の当たりにできるとお思いかな?

都会から来た男:
思わねば何も大声で、地球の名などを呼びは致しません。
私の辞職もそのためでございます。

老人:
それにはなにか訳でもござるかな?

都会から来た男:
いや、別段訳などはございません。
ただ先日仕事の帰りに、ある大臣の持論をうかがいました。
その大臣のおっしゃることには、人類のふるさとである地球は消滅していない、かつて人は青い空と緑の自然のなかで自由に生活していたとかいうことです。
私はそのとき体中の血が、一度に燃え立ったかと思う程、急に地球が恋しくなりました…。

老人:
それから先生はどうなされましたな?

都会から来た男:
私はあらゆる大臣に地球を見られる場所はないかと片っ端から尋ねて回りました。

老人:
なに、片っ端から?

都会から来た男:
するとついにある大臣が、パンドラだ、パンドラとおっしゃったので――いや、こうしているうちに、地球が姿を隠してしまってはいけない。
ではご免蒙りましょう。

老人:
お待ちなされ。
この門の先は立ち入り禁止じゃて。
もう何十年も人は入っておりませぬ。
子どもの時分、興味本位で入ってみれば、灯りのない道には暗闇が広がるばかり、行き止まりまで歩いてもなにもありはせなんだ。
灯りも持たずに行くのは危険じゃ。
ここで引き返しなされ。

都会から来た男:
引き返すわけにはいきません。
地球の姿を拝むまではどこまでもこの道を進むのです。

老人:
聞き分けのないお方じゃ。
そこまで申されるなら、好きになされよ。

都会から来た男:
母なる大地よ、おーい。おーい。

老人:
いや、とんだ物狂いに出会うた。
まったく意味のないことを。
どれ引き返してくるまでここで待つとしよう。

反響する鐘の音。次第に闇が深くなる。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。

深い闇。ときにツバメのような鳥の声。

都会から来た男:
母なる大地よ。おーい。おーい。
――この壁の先には進めない。
天を仰いでも闇ばかりだ。
人類が地球に住んでいた頃は、見上げれば星空だったというのに。
地球が見える場所はこの先か。
もし私が母なる海だったら、壁に染み入ることができるのだが…。
しかしあの大臣は、パンドラに行けば地球の姿が見られると言った。
してみれば私が大声で、地球の名前を呼び続けたら、姿を見せないこともないだろう。
ならば死ぬまで呼び続けるのみ。
幸いこの壁は登ることができそうだ。
まずはこの壁を登り、天に近づいてみるとしようか。
――母なる大地よ。おーい。おーい。

深い闇。ときにツバメのような鳥の声。

老人:
あの物狂いに出会ってから、もう今日は7日目じゃ。
なんでも地球の姿を拝みたいなどと申していたが。
途中でのたれ死なれても困る、どれ様子でも見に行ってみるか。
――どういうことじゃ、行き止まりまで歩いても誰もおらぬわい。
おお、灯りに照らしてよく見てみれば、壁に跡がついておる。
あの男はここを登っているのか。
先生。先生。
…かすかに聞こえるのは紛れもないあの男の声じゃ。
先生。降りてきなされ。先生。

深い闇。ときにツバメのような鳥の声。

老人:
このまま見放すわけにはいかぬ。
なにごとも前世の因縁じゃ。
――や、これはどうしたことか。
天から光が射してきたぞ。
人工灯とは異なるこの光は?
や、今度はなにかが落ちてきた。
この金色の粉は?
おお、見上げれば遠くになにか見えるぞ。
もしや、あの青く広がるのは空か。
白く流れるのは雲か。
ではあの光は太陽、地球とはここであったのか。
先生。先生。そこからなにが見えまする?
先生。

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