今回紹介するのは、1925年に出版されたアメリカ文学の傑作、『グレード・ギャツビー』(フィツジェラルド:作、大貫三郎:訳/角川文庫)だ。
作者のフィツジェラルドは、第一次世界大戦後の幻滅と喪失感を抱えた「失われた世代」の作家として知られる。
彼の代表作である本作は、村上春樹さんの『ノルウェイの森』に登場していることでもおなじみで、現代の読者にも広く親しまれている。
また、何度か映画化されており、そのなかでも2013年にレオナルド・ディカプリオさんが主演した『華麗なるギャツビー』は大きな話題となった。
さらに、舞台化も複数回されていて、2022年には宝塚歌劇団月組による上演が決定したことに伴い、角川文庫から新版が発行された。
なお、本作はかつて、小説・映画・舞台すべて『華麗なるギャツビー』という邦題だったが、近年は『グレート・ギャツビー』とされることが多い。
また、訳本はさまざまな出版社から出ているため、どれで読もうか迷う人もいるかもしれない。
そこでこの記事では、角川文庫版をもとに作品の魅力を紹介するとともに、新潮文庫版との比較も行った。
あらすじ
1922年、中西部出身の若い証券マンであるニック・キャラウェイは、ニューヨーク郊外のロングアイランドにあるウエスト・エッグに引っ越してきた。
彼の隣には謎めいた大富豪ジェイ・ギャツビーが住んでおり、毎晩のように豪邸で豪華なパーティーを開いているが、その過去や目的は謎に包まれている。
しかし、ニックはギャツビーと親しくなるにつれ、彼がかつて愛した女性デイジー・ビュキャナンとの再会を切望していることを知る。
実はギャツビーは、かつて貧乏な身分の為にデイジーと結ばれなかった過去を持ち、彼女を取り戻そうと、富を築き、豪邸を建て、パーティーを開いていたのだ。
デイジーはギャツビーの屋敷の対岸、イースト・エッグに住んでおり、ニックとは親類。
彼女の夫のトム・ビュキャナンもニックとは学友だった。
そしてギャツビーはニックの協力を得てデイジーを取り戻そうとするのだが、はたして彼の夢は叶うのだろうか。
失われた時を求めて
『グレート・ギャツビー』という作品と出会う前、私が「ギャツビー」という名を聞いて思い浮かべるのは、本作が名前の由来となっている男性化粧品のCMだったり、映画でギャツビー役を演じたレオナルド・ディカプリオさんのポスター画像だったり、とにかく世の男性たちが憧れるダンディな男、というものだった。
実際、本作の主人公ジェイ・ギャツビーは巨万の富を築き上げたお金持ちだ。
しかしながらこの作品は、そのような成功者のかっこよさに焦点を当てているわけではない。
むしろ、傍から見ればなんの不満もない生活を送っているように思われる男の、内に秘めた一途な情熱、そしてその夢の実現の先にある悲劇的な運命が胸を打つ作品だった。
青春時代の恋愛は誰にとっても懐かしい思い出だと思う。
それが幸せな記憶である人もいれば、なかには甘酸っぱい、苦い記憶になっている人もいるだろう。
もしあのとき、あの恋が上手くいっていたら。
2人で幸せになれていたら。
ときにはそんな想像を巡らせることもある。
しかし、本作の語り手であるニックがギャツビーに助言しているように、過去を取り戻すことはできない。
けれども、ギャツビーは取り戻せると信じている。
彼は青春時代の美しい思い出にしがみつき、デイジーのために人生のすべてを捧げてきた。
彼女のために富豪になり、彼女の邸宅の対岸に豪邸を建て、誰でも入れるパーティーを開く。
その情熱は、もはや狂気さえ感じられる。
デイジーと別れてから5年が経ち、すでに彼女がトムと結婚して娘がいても、再会を果たした彼女が自分の想像力で創り上げた理想のデイジーと異なっていても、彼は失った青春を取り戻す夢を諦めない。
そしてその真っ直ぐな情熱は、彼らの人生を歪ませ、ある悲劇を招いてしまう。
幸せだったあの頃。
永遠に続くはずだったのに終わってしまった恋。
あの頃に戻りたい、やり直さなければ。
華やかな生活の裏でひたすら夢を追い続け、最期までデイジーへの永遠の愛のために生きた彼の人生は、切なく、儚く、美しかった。
角川文庫版と新潮文庫版との比較
先にも述べたように、本作はさまざまな出版社から訳本が出ているため、どの翻訳を選ぼうか悩む人もいるのではないだろうか。
そこでここからは、角川文庫版と新潮文庫版の『グレート・ギャツビー』を比較し、それぞれの特徴を紹介する。
翻訳について
まず、角川文庫版と新潮文庫版の翻訳の違いを説明するにあたり、本作冒頭でニックがギャツビーの人物像について述べた部分を例として挙げる。
以下は角川文庫版の翻訳。
もしうまく成功した挙動の連続が人格だといえるなら、彼の身辺には何かしら豪華なものが漂い、人生の途上に横たわった見込みのありそうなものには敏感に反応を示し、まるで一万マイル遠方の地震を記録する、あの複雑な器械に繋がっているみたいだった。《創造的気質》という、もったいぶった名前をつけられている、しまりのない感じやすさとは何の関係もない敏感さだ――いってみれば、あくまで希望を抱いてやまない、異常な才能だ。それはロマンチックな心構えがいちはやくできていることであって、僕の見る限り、どんなひとにも断じて見られなかったようなものだし、また二度とふたたび見られそうもないものだ。
『グレート・ギャツビー』p.9(フィツジェラルド:作、大貫三郎:訳/KADOKAWA/2022)
そして、以下が新潮文庫版の翻訳。
もしも間断なく演じ続けられた一連の演技の総体を個性といってよいならば、ギャツビーという人間には、何か絢爛とした個性があった。人生の希望に対する高感度の感受性というか、まるで、一万マイルも離れた所の地震さえ記録する複雑な機械と関連でもありそうな感じである。しかし、この敏感性は、「創造的気質」とえらそうな名称で呼ばれるあのよわよわしい感じやすさとは無縁のものだった――それは希望を見いだす非凡な才能であり、ぼくが他の人の中にはこれまで見たことがなく、これからも二度と見いだせそうにないような浪漫的心情だった。
『グレート・ギャツビー』p.7(フィツジェラルド:作、野崎孝:訳/新潮社/2010)
全体的な印象として、角川文庫版が具体的でわかりやすい文章になっているのに対し、新潮文庫版は簡潔で格調高い文章になっているように感じた。
上記の翻訳においても、角川文庫版では「豪華なものが漂い」「敏感に反応を示し」「ロマンチックな心構え」など、現代的な言葉遣いで、説明的な表現が多いため、読者にとって理解しやすい。
一方の新潮文庫版では「絢爛とした個性」「高感度の感受性」「浪漫的心情」など、詩的で文学的な表現が多く、原文の雰囲気を忠実に再現している印象だ。
そのため、ストーリーを理解しやすく、登場人物に感情移入しやすい翻訳を読みたい人は角川文庫版を、原文の雰囲気を重視し、美しい文章で読みたい人は新潮文庫版を選ぶといいだろう。
ただし、理解しやすいという意味での読みやすさは角川文庫版が勝るものの、見やすいという意味での読みやすさは、字が大きい新潮文庫版の方が勝っているので、その点は注意が必要だ。
また、デイジーのセリフについても、角川文庫版は語尾が「~なのよ」「~だわ」と女性的になっていることが多いのに対し、新潮文庫版は「~なんだ」と断定していることが多かった。
本作は映画化や舞台化もされているため、デイジー役を演じる役者のイメージに近い方を選んでもいいかもしれない。
人名の表記について
角川文庫と新潮文庫では、人名の表記も一部異なっている。
以下、違いを表にまとめてみた。
角川文庫 | 新潮文庫 |
---|---|
デイジー・ビュキャナン | デイズィ・ビュキャナン |
ジョージ・ウィルソン | ジョージ・ウィルスン |
メイヤー・ウルフシェーム | マイヤー・ウルフシェイム |
ダン・コーディ | ダン・コウディ |
ビロクシー | ビロックスィ |
マカイリス | マイカリス |
全体的に、角川文庫の方が現代的で、新潮文庫の方が古典的な表記になっている。
なお、「マカイリス」と「マイカリス」の違いについてだが、これはどちらかが間違っているわけではない。
原文「Michaelis」の発音には、「マカイリス」と「マイカリス」の両方が存在する。
訳注等について
本作においては、角川文庫と新潮文庫のどちらにも訳注がついているが、それが記載されている場所と量が大きく異なる。
まず、新潮文庫の訳注は本文中にかっこで挿入されている。
量も最低限で、ストーリーを中断される頻度が少ないのがメリットだ。
一方で、訳注がないことで少しわかりにくい部分もあった。
それに比べて、角川文庫には充実した訳注がついている。
訳注は本文のあと、解説の前にまとめて掲載されているため、本文を読みながらページを行ったり来たりしなくてはいけないが、詳しい説明のおかげでストーリーを理解しやすかった。
例えば、ギャツビーがニックやトムに語りかけるときに使う表現。
新潮文庫では「親友」となっているが、角川文庫では「ねえ君」とされており、「オールド・スポート」というフリガナと共に以下のような訳注がついている。
男は酒・賭事などの道楽を持っているのでこう呼ぶ。従って女性には用いない。非常な親しみをしめす。
『グレート・ギャツビー』p.256(フィツジェラルド:作、大貫三郎:訳/KADOKAWA/2022)
また、デイジーがニックの家に車でやってきた際、ニックが運転手の鼻について言及する場面がある。
この部分、新潮文庫ではなんの説明もないが、角川文庫の方には以下のような訳注がついている。
デイジーが前に話した執事の鼻にかけた冗談。
『グレート・ギャツビー』p.258(フィツジェラルド:作、大貫三郎:訳/KADOKAWA/2022)
「デイジーが前に話した」というのは、ニックがウエスト・エッグに引っ越してきて間もない頃、初めてキャラウェイ夫妻の邸宅を訪れたときのことを指す。
このときの会話はそれほど印象に残らないものだったため、この訳注がなければなぜニックが突然鼻のことを言ったのかわからなかったと思う。
同様に、ある暑い日にニックとギャツビーがキャラウェイ夫妻の邸宅を訪れた場面、執事が受話器に向かってよくわからない発言をするところがある。
訳注のない新潮文庫ではどういうことなのか状況をつかみにくいが、角川文庫では以下の訳注があったため、スムーズに理解できた。
この一節は、暑さのあまり、探偵小説などで執事が主人の死体を発見して、しかも彼が犯人であるような状景に暑さをかけた、機智とユーモアに富むニックの想像。
『グレート・ギャツビー』p.258(フィツジェラルド:作、大貫三郎:訳/KADOKAWA/2022)
さらに、角川文庫には最初にニューヨーク・シティ&ロングアイランド周辺の地図がついていて、ギャツビー・ビュキャナン夫妻・ニックそれぞれの家、ウィルソンのガレージ、158丁目のアパートのおおよその位置が記載されている。
文字だけで位置関係を把握するのが苦手な人にとってこのような配慮はありがたい。
解説について
角川文庫も新潮文庫も、訳者が解説を書いている点では同じだが、その内容には違いが見られる。
まず、角川文庫では、日本人はヘミングウェイやマーク・トウェインなどの冒険的世界の作品は読むものの、フィツジェラルドの作品はあまり読まないという指摘の紹介から始まり、ギャツビーがギリシャ神話の「オイディプス王」やアングロ・サクソンの英雄「ベーオウルフ」と同じ、上昇線を描いてから下降線をたどる英雄であることに触れ、ロマンチシズムの無償性や、灰の山・眼医者の大きな広告などが象徴するものなどについて解説している。
タイトル・ロールであるギャツビーを中心として解説で、本作のロマンチックさと悲劇性が凝縮されているように感じた。
一方の新潮文庫では、作者であるフィツジェラルドの人生と彼が生きた時代背景から始まり、ギャツビーとニックが共に作者の分身であることに触れ、本作が語り手ニックの成長物語として読めることや、都会的な東部と素朴な西部の対比などについて解説している。
こちらは本作がニックの視点から語られていることの魅力がよくわかる解説となっていた。
永遠の愛と青春の物語
決して色褪せることのない永遠の愛と、若き日の情熱が織りなす、美しくも儚い物語。
恋愛小説が好きな人や、アメリカの文学作品に興味がある人におすすめだ。
過去を取り戻すことに人生をかけたギャツビーは愚かかもしれない。
だが、美しかった青春を懐かしく思う気持ち、そして永遠の愛への憧れは、誰の胸の中にもあるのではないだろうか。
また、角川文庫版と新潮文庫版を比較してみると、全体的に角川文庫版の方が現代的な翻訳で読みやすく、訳注なども充実していて、ストーリーを理解しやすいように思える。
しかし、新潮文庫版も、文学的な翻訳や読みやすい字の大きさ、ニックの目線から本作を読み解いた解説など、角川文庫版とは違った魅力があった。
さらに、本作はこれ以外にもさまざまな訳本があるので、いくつか読み比べてみても面白い。
映画や舞台、そして村上春樹さんの作品を通じて本作を知った人も、ぜひ原作の『グレート・ギャツビー』に触れてみてはいかがだろうか。
国立大学にて日本文学を専攻。
一般企業に就職したのち、フリーランスのWebライターに転身。
クラウドソーシングサイトを通じて、大手出版社が運営する本のポータルサイトに書籍レビュー記事を投稿した経験を活かし、2019年に書籍・情報サイト「いかけや日記」を開設。
2020年頃、宝塚歌劇団のファンに。
舞台の原作本を読む機会が増えたことから、2024年、「いかけや日記」を宝塚原作本の紹介を中心としたサイトへとリニューアル。
なお、読書スピードは超スロー。