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自らの人生の継承(『こころ』夏目漱石/新潮文庫)

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今回は、夏目漱石の『こころ』を取り上げる。

本作は高校の国語の教科書にも載っている名作で、ほとんどの人が知っているだろう。

しかし、教科書には上・中・下と3部あるうちの「下 先生と遺書」の一部分しか載っていない。

そのため、本作を最初から最後まで通して読んだことがないという人も多いのではないだろうか。

実は私自身もその一人だった。

しかし、本作の主人公である「私」は教科書に登場しておらず、どのように先生と出会って長い手紙を受け取るまでに至ったのかということにもずっと興味があったので、改めて読んでみることにした。

ただし、高校の教科書で後半部分を知ってしまっている以上、どうしても「どうやってあの結末になるのか」という特殊な観点からの読み方になってしまった。

そこで今回は、私と同じように教科書でしか本作を読んだことがないという人に向けて、あらすじや魅力を紹介しようと思う。

ネタバレが多くなるので、本作を全く読んだことがないという人は注意してほしい。

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あらすじ

3部構成の本作。

タイトルの通り「先生と私」の物語、「両親と私」の物語、「先生と遺書」の物語、という3つの場面に分かれている。

そこでここでは、本作の上・中・下、それぞれのあらすじを紹介する。

上 先生と私

書生だった「私」は、夏休みに鎌倉の海で先生と出会い、懇意になる。

東京に帰ってからときどき先生の家を訪れるようになった「私」は、先生が毎月友人の墓参りをしていることを知るが、先生は自身の過去について決して語ろうとしない。

また、先生は仕事もせず世間と関わりを持たずに暮らしており、その理由は先生の奥さんすらわからないという。

その一方、「私」の父親が病気だと知ってからは、財産の始末はしっかりつけておくべきだと「私」に繰り返し勧めるのだった。

先生はいかにして今のように厭世的になったのか、過去を知りたいと思うようになる「私」。

しかしその機会は得られぬまま、大学を卒業した「私」は先生と9月に再会することを約束して帰郷する。

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中 両親と私

実家に帰ってみると、父親の体調は思っていたほど悪くなっていなかった。

そんななか、新聞で明治天皇の崩御が伝えられる。

その後も父親の体調に変化はなく、9月に入って東京に出ようとする「私」だったが、その直前になって父親がまた倒れてしまう。

そのときから父親の病状は徐々に悪化し、「私」は東京行きを延期することにした。

離れて暮らす親族が家に集まった頃、新聞は乃木大将の殉死を伝えた。

先生から会いに来られないかという電報が家に届くも、間が悪く「私」は東京に行くことができない。

さらに父親の病状が悪化し、昏睡状態に陥るようになった頃、今度は先生から分厚い手紙が届いた。

父親がいつ亡くなるかわからず、落ち着かない気分で流し読みをした「私」は、ふと目についた一文からこれが遺書であることに気づく。

「私」は父親をそのままに東京行きの汽車に飛び乗り、手紙に目を通した。

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下 先生と遺書

先生が「私」に宛てた手紙。

そこにはこれまで語られることのなかった先生の過去が書かれていた。

両親を亡くし、残された財産を叔父に奪われた先生は、故郷を離れ、ある素人下宿に住むことにした。

そこは未亡人の奥さんとそのお嬢さんが住む家だった。

その後、友人のKが家庭の事情から神経衰弱になり、心配した先生は彼を自分が住む家に移らせる。

4人で暮らすようになってからKの心がほぐれていくのを感じた先生は、その変化を喜んだ。

しかし今度は、自分がひそかにお嬢さんに恋心を抱いているように、Kもお嬢さんに恋をしているのではないかという不安が先生を襲うのだった…。

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文字での伝達

本作の「下 先生と遺書」は先生が「私」に宛てた手紙がそのまま掲載されている形になっている。

そのため、上・中とは異なり、下の「私」は先生のことを指す。

また、手紙であることから、先生が「私」に語りかける口調になっていることも特徴だ。

今回上・中を初めて読むにあたって個人的に興味を持ったのは、それら前半部分がどのように語られているのかということだった。

そこで以下に、本作の始めの部分を引用する。

 私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」と云(い)いたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。余所(よそ)々々しい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。

『こころ』p.7(夏目漱石/新潮社/2004)

ここから、主人公の「私」が語り手になっていることがわかる。

これは上・中で共通だった。

また、「書く」「筆を執っても」という表現から、上・中も下と同じように手紙なのではないかと感じた。

少なくとも、伝えるべき相手がいることは確かだ。

ただし、下が「私」という特定の相手に対して先生が書いた手紙であるのに対し、上・中の語り手である「私」は誰に対してこれを書き残しているのか、肝心の相手はわからない。

本作の読者一人ひとりが相手ともいえるのかもしれない。

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過去を語る「私」

また、「上 先生と私」のなかには、以下のような記述もあった。

先生は美くしい恋愛の裏に、恐ろしい悲劇を持っていた。そうしてその悲劇のどんなに先生に取って見惨(みじめ)なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、先(ま)ず自分の生命(せいめい)を破壊してしまった。
 私は今この悲劇に就いて何事も語らない。

『こころ』p.40(夏目漱石/新潮社/2004)

つまり、上・中の語り手である「今」の「私」は、先生から受け取った手紙の内容も、先生が自殺したこともすべて知っていることになる。

そのうえであえてそのことに触れずに話を進めているのだ。

「上 先生と私」のなかにはこのような箇所がいくつかあった。

通常であれば先生が自殺した理由に興味を持ちながら読み進めることになるはずだったが、私は先に「下 先生と遺書」の内容を知っていたため、異なる点に興味を抱いた。

先のあらすじでも紹介したように、本作の「中 両親と私」は、父親が臨終の時を迎えようとしているなか、先生からの手紙が遺書だと気づいた「私」が東京行きの汽車に飛び乗り、汽車の中で手紙に目を通すところで終わっている。

では、手紙を読み終えた「私」はその後どうなったのだろうか。

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継承される人生

高校の教科書に掲載されているのは「下 先生と遺書」の途中の部分だったので、最初と最後の部分は初めて読んだ。

「下 先生と遺書」は、先生が「私」にこの長い手紙を書こうと思ったわけについての記述から始まり、先生の過去へと続く。

そして、手紙の締めくくりとともに本作は終わっていた。

すなわち、「下 先生と遺書」は最初から最後まで先生の手紙だけで構成されており、「中 両親と私」のラストで汽車に飛び乗った「私」が、先生からの手紙を読み終えて何を感じ、本作の語り手となるまでどう生きたのかは全く描かれていないのだ。

先生は、「私」にこの手紙を残した理由について、手紙の中で以下のように書いている。

私は何千万といる日本人のうちで、ただ貴方だけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目(まじめ)だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云ったから。
 私は暗い人世(じんせい)の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上(あげ)ます。然し恐れては不可(いけま)せん。暗いものを凝(じっ)と見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御攫(おつか)みなさい。
〔中略〕
私の鼓動が停った時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。

『こころ』p.172-173(夏目漱石/新潮社/2004)

先生は自分とは異なる時代を生きる「私」に自らの人生を継承して死んだ。

そして、先生の人生から何かを学んだ「私」も、先生の遺書に自らの人生を付け加えて、誰かに継承することを選んだ。

本作を最初から通して読んで初めて、私にはこの作品が人生を継承する物語として映った。

「私」が先生の手紙から何を得てどう生きたのかはわからない。

しかし、本作を読んだとき、先生から「私」に継承された人生が、今度は「私」から読者一人ひとりへと継承された。

時代を経てそれを受け取った私たち読者も、本作から何かを掴み取らないといけない。

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人間の「こころ」

Kの信念とお嬢さんへの恋心、先生がKに抱く畏敬の念と罪の意識、「私」の先生に対する尊敬のまなざし、そして彼らが下した人生の決断。

そのなかには、時代の違いによって現代の私たちには理解しづらいこともある一方、時代を経ても変わらない人間の「こころ」も含まれている。

そしてそれは、今後も受け継がれていくのだろう。

高校の教科書で読んだときにはいまいち良さがわからなかった人も、全部を通して読んでみると新しい発見があるかもしれない。

結末を知っていてもつまらないと感じることなく読めたので、後半しか知らない人はぜひ最初から読み直してみてはいかがだろうか。

タイトルの通り人の「こころ」が主題なので、文学に興味がある人だけでなく、心理学に興味がある人にもおすすめの作品だ。



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かなづち

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