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新選組隊士の最期は?局長・副長・組長たちの死因まとめ

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幕末、京都の治安維持のために活躍した新選組。

滅びゆく江戸幕府を守るために命がけで戦う男たちの生き様は多くの人々を魅了し、小説や映画、ドラマや舞台など、新選組をモデルに数多くの作品が誕生しています。

また、容姿端麗な隊士もいたことからマンガやゲームのなかでイケメンキャラとして描かれることも多く、女性からも人気です。

ただしこれらの作品はフィクションなので、史実とは異なる描写もあることでしょう。

そこでこの記事では、歴史上の新選組隊士が実際にどのような最期を遂げたのか、メンバーごとの死因をまとめました。

以下、死んだ順番に沿って紹介していきます。

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芹沢鴨

芹沢鴨は常陸国(現在の茨城県)水戸の出身です。

ただし、出生年については諸説あり定かではありません。

新選組の前身である壬生浪士組の筆頭局長を務めた人物です。

文久3 年(1863 年)に近藤勇や土方歳三らとともに壬生浪士組を結成したメンバーの1人であり、この時点では芹沢鴨が筆頭局長を、近藤勇と新見錦の2人が局長を務めていました。

しかしながら芹沢鴨は酒乱であり、粗暴な振る舞いも多く見られたため、文久3年(1863年)9月16日の夜、宴会の後に泥酔して就寝していたところを近藤勇たちの手により暗殺されました。

ちなみに、芹沢派だった新見錦もこの約一ヶ月前に局中法度を破ったとして近藤に切腹させられており、芹沢暗殺以降、新選組は近藤勇を局長、土方歳三を副長とする体制に変わっていきます。

芹沢鴨のお墓は京都府京都市中京区の壬生寺にあります。

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松原忠司

松原忠司は播磨国小野藩(現在の兵庫県)藩士の子として生まれていますが、その生まれ年は諸説あり不明です。

新選組の四番隊組長を務めた人物です。

しかし、四番隊組長に選ばれたわずか4ヶ月後の慶応元年(1865年)9月1日に亡くなりました。

新選組の記録では病死とされています。

しかし、切腹に失敗して生き残ったものの傷が悪化して亡くなった説、夫を殺された女性に殺された説など、本当の死因については諸説あるようです。

そのなかのひとつ、心中説は、『新選組物語』の「壬生心中」に描かれている話です。

ある日、松原忠司は酔った勢いでとある男性を斬り殺してしまい、その妻のもとを訪ねた際、「斬り合いをしていたところに助けに入ったが間に合わなかった」と嘘をつきます。

罪悪感を覚えた彼はお金を持ってその妻のもとに通うようになり、いつしか深い仲になるのでした。

しかし、それを知った土方歳三にとがめられ、責任を感じた彼は切腹するも、失敗に終わります。

そして、松原忠司は女に自分の罪を告白し、それを知ってもなお彼を愛していた女と2人で心中した、という物語です。

しかし、これは『新選組物語』作者の子母澤寛または八木為三郎による創作の可能性もあるといわれています。

松原忠司のお墓は京都府京都市下京区の光縁寺にあります。

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谷三十郎

谷三十郎は備中国(現在の岡山県)松山に生まれました。

生まれ年は諸説あり不明です。

新選組の七番隊組長を務めた人物です。

彼は慶応2年(1866年)4月1日、京都東山にある祇園社にて亡くなりました。

しかし、その死因については、斎藤一による暗殺説や過度の飲酒による脳卒中説などがあり、はっきりとはわかっていません。

彼のお墓は大阪府大阪市北区の本傳寺にあります。

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武田観柳斎

武田観柳斎の出身地は出雲国(現在の島根県)だといわれています。

生まれ年については諸説あります。

新選組の五番隊組長を務めた人物です。

しかし、徐々に倒幕思想に傾倒するようになり、慶応2年(1866年)に新選組を脱退します。

その後、倒幕派の薩摩藩と接近するも、そのことを新選組に知られてしまいます。

そして慶応3年(1867年)6月22日、武田観柳斎の送別会と称して新選組が開いた宴会の帰り道、竹田街道の銭取橋にて、かつて仲間だった隊士の手により暗殺されました。

彼のお墓の場所はわかっていません。

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藤堂平助

藤堂平助は弘化元年(1844年)生まれで、出自にはさまざまな説があります。

新選組の八番隊組長を務めた人物です。

彼は慶応3年(1867年)、かつて自ら新選組に勧誘した伊東甲子太郎とともに御陵衛士を結成するため、新選組を脱退します。

このとき、斉藤一もともに御陵衛士に加わっていましたが、実は彼は新選組のスパイとして潜りこんでいたのです。

そして、斉藤一から伊東甲子太郎が近藤勇を殺害しようとしていると通報を受けた新選組は、慶応3年(1867年)11月18日、七条油小路にて伊東甲子太郎を殺害し、その遺体を放置します。

罠だとわかっていながら遺体を引き取りに来た藤堂平助は、待ち伏せていた新選組と斬り合いになり討ち死にしました。

これがいわゆる油小路事件です。

このとき、現場にいた永倉新八は近藤勇から「藤堂平助を殺すな」と命じられていたため、彼を逃がそうとしたそうです。

しかし、それを知らない新入りの三浦常三郎という隊士が背後から藤堂を斬りつけ、彼が振り向いたところにさらなる顔面への一撃を加え、それが致命傷になったと伝えられています。

享年は24でした。

藤堂平助や伊東甲子太郎の亡骸は油小路事件の生き残りである鈴木三樹三郎らにより葬られ、お墓は京都府京都市東山区の戒光寺にあります。

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井上源三郎

井上源三郎は文政12年(1829年)、多摩郡日野宿北原(現在の東京都日野市日野本町)に生まれました。

新選組の六番隊組長を務めた人物です。

慶応4年(1868年)1月5日、鳥羽・伏見の戦いの最中、井上源三郎は淀千両松にて新政府軍と激突し、撤退命令が出たにも関わらず放棄された大砲にて応戦、敵の銃弾を腹部に受けて戦死しました。

土方歳三の腕の中で亡くなったともいわれています。

享年は40でした。

彼のお墓はふるさとである東京都日野市日野本町の宝泉寺にあります。

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近藤勇

近藤勇は天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水町)に生まれました。

新選組の局長を務めた人物です。

慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いで新選組が敗戦したのち、江戸に戻って甲陽鎮撫隊を結成、甲州(現在の山梨県)勝沼にて新政府軍と戦うも敗走します。

その後、下総(現在の千葉県)流山で新政府軍に捕らえられ、慶応4年(1868年)4月25日に江戸板橋にて斬首されました。

彼の首は京都に送られ、三条河原にて梟首、つまり晒し首にされています。

享年は35でした。

彼のお墓は、亡骸が埋葬された東京都三鷹市大沢の龍源寺や、土方歳三が近藤勇の遺髪を埋葬したとされる福島県会津若松市の天寧寺、永倉新八が建てたとされる東京都北区の寿徳寺境外墓地などにあります。

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原田左之助

原田左之助は天保11年(1840年)、伊予国(現在の愛媛県)松山に生まれました。

新選組の十番隊組長を務めた人物です。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの後、意見の食い違いにより近藤勇と袂を分かち、永倉新八と靖兵隊(靖共隊)を結成しました。

その後、彼は隊を一時離脱して江戸に向かいます。

そこで彰義隊に合流し上野戦争に参加したところ、戦闘中に敵からの銃撃を受け、慶応4年(1868年)5月17日、その傷がもとで戦死しました。

享年は29でした。

彼のお墓の場所はわかっていません。

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沖田総司

沖田総司の生まれ年は天保13年(1842年)説と天保15年(1844年)説の2つあります。

生まれたのは江戸の白河藩下屋敷(現在の東京都港区西麻布)で、父親は陸奥白河藩(現在の福岡県)藩士でした。

新選組の一番隊組長を務めた人物です。

持病の肺結核が悪化したため慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いには参加せず、江戸に戻ってからは千駄ケ谷池尻橋の植木屋平五郎宅で療養していましたが、慶応4年(1868年)5月30日に病死しました。

生まれ年が定かではないので享年も不明ですが、20代で亡くなっています。

彼のお墓は東京都港区元麻布の専称寺にあります。

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土方歳三

土方歳三は天保6年(1835年)、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)に生まれました。

新選組の副長を務めた人物です。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いにて、近藤勇の代わりに隊を指揮するも敗戦、近藤が捕らえられた後も宇都宮、会津若松と転戦を続けます。

最終的に箱館(函館)五稜郭に渡り、榎本武揚のもとで戦いました。

しかし明治2年(1869年)5月11日、五稜郭にて新政府軍に抗戦する最中、流れ弾に当たって戦死しました。

享年は35でした。

彼のお墓はふるさとである東京都日野市石田の石田寺にあります。

また、彼が近藤勇の遺髪を埋葬した天寧寺にも、近藤のお墓と並んで土方歳三のお墓が建てられています。

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永倉新八

永倉新八は天保10年(1839年)、武蔵国江戸(現在の東京都)に松前藩(現在の北海道)藩士の子として生まれました。

新選組の二番隊組長を務めた人物です。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは隊を率いて活躍するも敗戦、原田左之助とともに靖兵隊(靖共隊)を結成して会津に向かいましたが、会津藩が降伏したため江戸に戻り、その後松前藩士として復帰することが許されます。

明治4年(1871年)には松前に移住し、明治6年(1873年)には名前を「杉村義衛」に改名、その後は小樽に移住して剣道の師範などを務めました。

また、彼は大正2年(1913年)3月から小樽新聞にて自伝の連載を行っており、この連載はのちに『新選組顛末記』のタイトルで1冊の本にまとめられています。

この本は当事者が新選組について語った貴重な資料であり、現在は電子書籍でも読むことができます。

そして大正4年(1915年)1月5日、永倉新八は虫歯が原因の骨膜炎と敗血症により病死しました。

享年は77でした。

彼のお墓は、彼が建てた近藤勇のお墓とともに東京都北区の寿徳寺境外墓地にあります。

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斎藤一

斎藤一は天保15年(1844年)、武蔵国江戸(現在の東京都)に生まれました。

新選組の三番隊組長を務めた人物です。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いで新選組が敗れ、近藤勇が捕らえられた後、斎藤一は会津に向かい、白河口の戦いにて指揮官を務めました。

しかし戦いに敗れ、再会した土方歳三が防衛戦を北へ移動させようとしましたが、彼は会津にとどまる決意をします。

なおも新政府軍と戦い続けましたが、同年9月に会津藩が降伏し、彼もやむなく投降しました。

その後謹慎生活を送り、名前を「斎藤一」から「藤田五郎」に改名。

明治7年(1874年)になると明治政府の警視庁に採用され、明治10年(1877年)には抜刀隊として西南戦争に参加します。

その後警視庁を退職し、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の国立科学博物館)の看守や、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の庶務・会計係を務め、明治42年(1909年)に引退。

大正4年(1915年)9月28日、東京都本郷区真砂町にて胃潰瘍が原因で病死しました。

座布団の上に座ったままの姿勢で亡くなったと伝えられています。

享年は72でした。

彼のお墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にあります。

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鈴木三樹三郎

鈴木三樹三郎は天保8年(1837年)、常陸国(現在の茨城県)の志筑藩藩士の子として生まれました。

新選組の九番隊組長を務めた人物です。

同じく新選組隊士の伊東甲子太郎は彼の兄にあたり、入隊も同時でした。

彼は慶応3年(1867年)、兄の伊東甲子太郎らとともに新選組を脱退し、御陵衛士を結成します。

しかし同年、新選組により伊藤甲子太郎が暗殺され、遺体を引き取りに行ったところ、待ち伏せしていた新撰組の隊士たちと斬り合いになります。

このとき、彼らとともに新選組を脱退し御陵衛士に加わっていた藤堂平助は殺されてしまいますが、鈴木三樹三郎は乱闘を切り抜けて今出川の薩摩藩邸に逃げ込み、その後伏見薩摩藩邸に移されました。

翌年の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩一番隊に属し、伏見奉行所の新選組を破ります。

続けて松尾山での挙兵に参加し、赤報隊の二番隊組長を務めるなど活躍。

一時は偽官軍の嫌疑をかけられて投獄されますが、最終的には待遇が改善されて薩摩藩預かりとなりました。

その後、新政府軍の徴兵七番隊に加わり、戊辰戦争に参加します。

明治2年(1869年)には弾正台少巡察に任命され、以降は警察・司法の仕事に従事しました。

明治18年(1885年)に福島県二等属をもって退職し、余生は茨城県で送っています。

そして大正8年(1919年)7月11日、鈴木三樹三郎は老衰のため亡くなりました。

享年は83でした。

彼のお墓は茨城県石岡市の東耀寺にあります。

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新撰組隊士の最期は十人十色

今回紹介した新撰組隊士の最期をまとめると、以下のようになります。

  • 芹沢鴨(壬生浪士組筆頭局長):文久3年(1863年)9月16日、新選組の手で暗殺
  • 松原忠司(四番隊組長):慶応元年(1865年)9月1日、病死(心中説も)
  • 谷三十郎(七番隊組長):慶応2年(1866年)4月1日、死亡(死因は諸説あり)
  • 武田観柳斎(五番隊組長):慶応3年(1867年)6月22日、新選組の手で暗殺
  • 藤堂平助(八番隊組長):慶応3年(1867年)11月18日、新選組の手で討死
  • 井上源三郎(六番隊組長):慶応4年(1868年)1月5日、鳥羽・伏見の戦いで戦死
  • 近藤勇(新選組局長):慶応4年(1868年)4月25日、新政府軍の手で斬首
  • 原田左之助(十番隊組長):慶応4年(1868年)5月17日、上野戦争で戦死
  • 沖田総司(一番隊組長):慶応4年(1868年)5月30日、肺結核で病死
  • 土方歳三(新選組副長):明治2年(1869年)5月11日、五稜郭にて戦死
  • 永倉新八(二番隊組長):大正4年(1915年)1月5日、骨膜炎と敗血症で病死
  • 斎藤一(三番隊組長):大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍で病死
  • 鈴木三樹三郎(九番隊組長):大正8年(1919年)7月11日、老衰で死亡

暗殺、戦死、病死、老衰など、新撰組隊士の死因は十人十色でした。

新政府軍との戦いではかなく散った隊士もいますが、仲間の手で暗殺された隊士も目立ち、新選組の内部事情にも紆余曲折あったことがうかがい知れます。

また、本当の死因がはっきりせず、創作の可能性があるとされつつも、女性と心中したのではないか、そんな最期が噂される隊士がいるところにはロマンを感じます。

さらに、隊士たちの亡くなった時期が慶応元年(1865年)~慶応4年(1868年)に集中している一方、この時期の混乱を乗り越えて生き残った永倉新八・斎藤一・鈴木三樹三郎の3人はいずれも大正時代まで長生きしました。

一体何が彼らの命運を分けたのでしょうか。

新選組をモデルにたくさんの創作作品が生み出され続けている背景には、一度は同じ志を抱いた隊士たちのドラマチックな最期が関係しているのかもしれません。


運営者
かなづち

国立大学にて日本文学を専攻。
一般企業に就職したのち、フリーランスのWebライターに転身。
クラウドソーシングサイトを通じて、大手出版社が運営する本のポータルサイトに書籍レビュー記事を投稿した経験を活かし、2019年に書籍・情報サイト「いかけや日記」を開設。
2020年頃、宝塚歌劇団のファンに。
舞台の原作本を読む機会が増えたことから、2024年、「いかけや日記」を宝塚原作本の紹介を中心としたサイトへとリニューアル。
なお、読書スピードは超スロー。

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